アビゲール
− 幸福なクジラ −

ピーター・ファレリー作 「コメディ・ライター」より
イラスト 堀岡光次


むかしむかし ザトウクジラの大家族がサンタモニカの入り江からカリフォルニアのビーチをめざして泳いでいました。この近辺には声の大きな愉快なクジラの家族がたくさんいたのですが、このザトウクジラの大家族は他のクジラたちとは違い、とても静かで深い悲しみに沈んでいます。食べ物がなくて困っているわけでもないのに、はしゃいだり、歌ったり、笑ったりすることもなく、他のクジラたちとも群れずに、ただ黙々と泳いでいました。
でもその一家の中でも幸福なクジラ、アビゲールはそうではありません。アビゲールは体が大きいこともあって、列車で言えば最後尾の車両のように、ザトウクジラのグループの一番後ろについて泳いでいました。海中に捨てられた鎖や冷蔵庫、割れたガラス器具の間を通り過ぎながら、小さなクジラが食べるくらいの少量の海藻を食べて暮らしています。アビゲールは食事をする時以外は、歌ったり、笑ったり、ずっと海の中の小さな友達と遊んでいました。
イルカのゴルフィンはしばらくの間アビゲールと並んで泳いでいました。ゴルフィンの鼻は地上に住む人間が海に投げつけたゴルフクラブが当たってつぶれています。アビゲールがゴルフィンにキスをしてあげると、ゴルフィンの気持ちはいくぶん和らぎました。

「これから一緒にゴルフコースをまわる時間はあるかい?」
ゴルフィンはアビゲールに尋ねます。
「誘ってくれてうれしいわ。でも今日はダメなの。ビーチに行く途中なのよ」
「ビーチ?」ゴルフィンはあわてて聞き返しました。 「クジラがどうやってビーチに行くんだい?」
答えはなくアビゲールは行ってしまいました。
クジラたちはガラクタになった車や難破船の残骸、投げ捨てられたフリスビーを横切って泳ぎ続けます。アビゲールは幼馴染みのハマグリ、クレムとばったり出くわして立ち止まりました。誰かが使い古しのテレビをクレムの寝床に落としたせいで、ブラウン管の線が突き刺さって、クレムの貝殻の表面はムカデ状にリード線の出ているIC容器のようになっていました。

「どんなうすらバカがこんなことをしでかしてくれたんだか」
クレムは息巻いて怒っていました。アビゲールはそんなクレムの気持ちをわかっていたので、黙って、クレムの体からブラウン管の線を抜いてあげました。
「もう行かなきゃ。ビーチへ行く途中なの」アビゲールはそう言いました。
クレムはアビゲールをデートに誘い出したかったのですが、アビゲールのビーチへ行くという言葉を聞いて黙り込みました。
クジラたちは錆びついた錨と、緑色のドロドロしたものがこびりついた釣り竿やエボシガイで縁どりされた鏡の前を泳いでいます。アビゲールはそこで金魚のブラッキーと赤い青魚のフレッドが鏡にうつっているのを見ました。2匹の魚はそこに映っている自分たちの姿を見てえらをふるわせています。

「なんてこった!」金魚のブラッキーが叫びます。
「おいらはオイルサーディン一缶以上のオイルをかぶっちまったんだ!」
「でも君の場合はただ金のうろこが黒ずんだだけだよね」赤い青魚のフレッドは言います。
「僕は肝臓がお手玉ぐらいの大きさにふくらんで、そのせいで内側から赤い色になってしまったんだよ」
フレッドは近くの工場から出る排水で汚染された海藻を食べてこんな風になってしまったのです。
アビゲールはそんな2匹を見て言います。
「あなたたちがどんな風に見えようとも、どれだだけ肝臓が大きくなろうとも、私はそんなこと気にしないわ。今でもあなたたちのことが好きよ」
フレッドとブラッキーは笑って、アビゲールが空っぽのキャットフード缶と壊れたビーチチェアの間を抜けてパシャパシャと泳ぐのを見ていました。 「アビゲール、君はどこへ行くの?」二匹はアビゲールを呼び止めます。
「ビーチよ」
アビゲールがそう言うと、2匹は驚きのあまり口をあんぐりと開けてそのまま立ち尽くしてしましました。

ザトウクジラの群れがビーチに近づきつつあるとき、アビゲールは幼馴染みのメカジキ、ワードスミスに出会います。ワードスミスは鼻先に黒いリングをつけていました。

「やあ、こんにちは」言葉使いの丁寧なワードスミスが鼻にかかった声で言います。
「ワードスミスさん、ごきげんはいかが?」アビゲールは尋ねます。
「不愉快なことがあるんですよ」ワードスミスは怒っているようです。
「どうしたの?あなたの鼻にかかったその新しいリング、素敵だと思うけど」
「後々の教訓のためにあなたに教えてあげましょう」ワードスミスは説明しはじめます。
「これはリングではありません。無教養な人間が海に捨てたタイヤなのです。どういうわけか私の突き出た鼻先にはまってしまったのです」
「ええっ、そうだったの!」アビゲールは同情しました。
「そう、鼻についているのはタイヤなのです」ワードスミスは泣き出しました。
その時、幸いにもアビゲールは往診中のタコのガス先生とばったり出会いました。ガス先生は名医です。先生はワードスミスを引っ張って鼻のタイヤを抜いてあげました。

ガス先生はアビゲールにこれからどこに行くのかを尋ねます。
「ビーチに行くの」そう言って彼女はまた泳ぎ出しました。
「アビゲール、君に話があるんだ」
去ろうとするアビゲールをガス先生は7本の足を怒りながら振り上げて呼び止めます。ガス先生の8本目の足はソーダ缶のプルトップで傷つけられて吊り包帯をしていました。
「クジラはビーチに行っちゃいかんのだ、みんな砂の中に埋まってしまうぞ」
ガス先生はアビゲールを諭します。
アビゲールは立ち泳ぎをしながらガス先生の言葉を聞きました。
「ビーチが私たちを傷つけるというなら、どうして私たちはビーチへ行くの?私にはわからないわ」 アビゲールは大声で言います。
「わしにもわからんよ、でもそれをわしに尋ねるというのもおかしいぞ」ガス先生はそう言いました。
アビゲールは前を泳いでいる静かで悲しみに沈んだ仲間のクジラたちを追い抜いて先頭にいるリーダーのヘンリーの元へ行きました。
「ヘンリー、どうして私たちはビーチへ行くの? ガス先生は危険だって言ってたわ」アビゲールは尋ねます。
「僕たちはただビーチに行くわけじゃなくて、ビーチの上に乗り上げるつもりなんだよ」
「でも私たちがビーチの上に乗り上げたら、みんな砂に飲み込まれてしまうんじゃない?」
アビゲールは目に涙を浮かべながらそう言いました。
「僕たちのまわりをみわたしてごらん。ここではすべてのものが汚染されてる・・・」
ヘンリーは悲しそうに言います。
「地上の人たちはいらなくなったものを海に捨てている。だって彼らは海の生物たちが海面の下でどういうことになってるかわかってないからね。だから僕たちはビーチの上に乗り上げて地上の人たちの注意を引かなければならないんだ」
ヘンリーは他のクジラをすべて前に行かせたので、アビゲールはまた深く悲しみに沈んだザトウクジラたちの列の一番最後につくことになりました。
ザトウクジラの一家がビーチから数百メートルしか離れていないところを泳いでいた時、アビゲールはモビーダックの大きな影の下を通り過ぎました。モビーダックは世界で一番大きなアヒルです。タンカーから漏れた重油が羽毛についたせいで、色が黒くなり、体も大きくなってしまったのです。そしてしだいにいろんなものが体にくっつきはじめて、今では水に浮かぶ廃品置場のようになってしまいました。モビーダックの体にはこんなものがくっついています。
ライトが点滅している2つのブイ
発泡スチロール製のカップが3つ
浮き袋が7つ
メッセージの入ったボトルが4本
メッセージの入ってない空のボトルが2本
片手だけの人形が1体
ソファーがひとつ
マクドナルドのビックマックを入れる発砲スチロール製容器がひとつ
コルクでできた釣り用の浮きが22個
小さなボートがひとつ
管がつまっているスノーケルがひとつ
大きなボートがひとつ
「愛しのバレンタイン」と赤い文字で書かれたサイズ48の男性用下着が2枚

言うまでもなくモビーダックは落ち込んでいました。
「ビーチに近づいてどうするつもりなんだい?」モビーはガーガー鳴きながら言います。
「ビーチに乗り上げるのよ」アビゲールは感情を抑えながらささやくように言いました。
「なんてことだ。どうしてそんなことをするんだ!」モビーダックは悲しそうに叫びました。
「地上の人間たちに見せなきゃならないの。私たちがビーチに乗り上げて注意を引けば、彼らだって海を汚染することをやめるでしょ」若いアビゲールは答えます。
「そんなことをしても何も変わらないに決まってる。なにしろ奴らは僕のことを見てもずっと汚染し続けてるんだから」
アビゲールはゴミをくっつけられたモビーダックが言うことが正しいこともわかっていました。
自分たちがビーチに乗り上げてもなんの役にも立たないかもしれない、それはただビーチのゴミを増やすだけかもしれない…….その時アビゲールはあることを思いつきました。
アビゲールは海面スレスレに泳いで、海面に浮かんだスープ缶やテニスラケット、羅針盤、長靴などを一気に飲み込みました。それから背中の潮の吹き出し口から飲み込んだゴミを吹きだして、ぜんぶビーチへ投げ出したのです。
他の海の生物達も地上の人間が投げ捨てたゴミには堪忍袋の緒を切らしはじめてたので、尾びれや背びれを使ってゴミをビーチへ運んでアビゲールを手伝いました。
イルカのゴルフィンは1番アイアンで使い古しのバレーボールをビーチに向かって打ちました。
タコのガス先生はソーダ缶6パックセットと錆びついた魔法瓶を同時に浜辺へ投げました。
メカジキのワードスミスはのこぎりのような長く鋭い鼻先で古いはしごを切り分けて、金魚のブラッキーと赤い青魚のフレッドがひとつひとつビーチに運んでいきます。
ハマグリのクレムも自らの危険をかえりみず、一緒になってみんなの作業を手伝います。海の生物達が一丸となって水の中をきれいにしました。
メジロザメのリン・フィンフィンはイカのシドとウナギのニールにあれこれ命令し、カニのタブも手伝います。お金持ちの牡蠣のローズロイスター、わがままなロブスターのボブさえ一緒になって海をきれいにする作業に協力しました。

ザトウクジラの列の先頭にいたヘンリーデイルはビーチで何が起こっているのかを見て、自分もゴミをガツガツと食べて、大きな潮を吹いてビーチに吐き出しました。まもなく他のクジラもみんな同じことをしはじめます。

海の生物達は夕方までかかって海全体の掃除をしました。その後どうしたかって?そう海の生物達はアビゲールと一緒に素晴らしい時間を過ごしたのです。
地上の人間たちはガラクタがビーチに戻されたのを見ました。人間たちはそれらのゴミをちゃんとしたゴミ廃棄場に持っていくほかありません。そうしなければ自分たちが海水浴をする場所がないのですから。大きなトラックが何台も遠くからやってきてゴミを本当のゴミ廃棄場まで運びました。最後のトラックに載せられたのはモビーダックから引き剥がされたゴミでした。

ザトウクジラが群れをなして海へ戻っていきます。
長い時間がかかりましたが、ようやくすべてのクジラがアビゲールのように幸福なクジラになれたのです。




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